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「イラン:ふしぎの国」
<第1回>
どうしてまたイランへ?
 8日間のミステリアス・イラン・ツアー

「連休はどうなさるの?」と訊かれ、「ええ、イランに」と答えると反応の9割は決まっていた。
「え? イランって、あのイラン? どうしてまた? お仕事ですか?」
「いえ、旅行です。ジャルパックで行くの」
「え? ジャルパックがそんなところに行ってるんですか?」
「ええ、行ってますよ」

 相手はしばらく黙る。その間考えていることは推測がつく。なんとまた物好きな……せっかくの休暇をなぜそんな危なそうなところに大金払って……しかも団体ツアーだって……この人、相当に変わっているわ……。

 とまあ、そんな「偏見」の視線にめげることなく5月1日から8日間イランを旅行してきた。酒が飲めなくて大丈夫か? 退屈するんじゃないか? 暑くてばてるんじゃないか? とさまざまな不安はあったが、帰国したいま、心の底から言える。
「楽しかった。おもしろかった。よかった」

 テヘラン→シラーズ→ペルセポリス→イスファハン→ヤズド→テヘランというめまぐるしい旅行ではあったが、見るもの聞くもの全部興味深く、いろいろと考えさせられることも多くて充実した旅であった。

 ところがですね、「イラン、よかったわよ」と私がうっとりとした口調で言っても、またもや誰もが疑いの視線を向けるのですね。もどかしい思いで、何が、どういう風にいいのかを説明したいと、このホームページを利用することにした。

イランとペルシャ、イメージのちがい

 一般的日本人のイランに対するイメージは、お世辞にも「いい」とは言い難い。現に私はイランと聞くと、イスラム革命、ホメイニ師、女性の真っ黒なカラスみたいな服装、イスラムの礼拝をまず思い浮かべ、つぎに日本への出稼ぎ、不法入国者と続く。1979年のイスラム革命と、それに続くイラン・イラク戦争、石油の問題、湾岸戦争などで新聞の紙面をにぎわせるときに記事を読むくらい。

 だがいったいイランの人たちがどんな暮らしをして、何を考えているかまでには頭をめぐらせたことがなかった。要するに、摩訶不思議で得体が知れないけれど、さほど知りたいとも思わない国の一つだったのだ。

 それなのになぜイラン旅行を思い立ったか。
 単純である。イスラムの国を一度見たかった。ただそれだけ。
 最初はシリアかヨルダンに行こうと資料を集めていたのだが、日程が最低でも11日かかると知ってあきらめた。ならばエジプトにしようかと旅行会社のパンフレットをめくっているうちに「ペルシャ周遊8日間の旅」に目が留まった。

 イラン、というと興味が惹かれなくても、ペルシャと聞いたとたんに頭の中にひらめくものがある。ペルシャ絨毯、ペルセポリス遺跡、モスク……とたんに神秘の国となるから不思議。

 8日間で4都市が回れる。飛行機で往きは10時間、帰りは8時間、時差が4時間半しかないというのも気に入った。旅行者であっても、ベールをかぶって、カラダをすっぽりとおおうコートを着なくてはならないと書いてあるが、その下には何を着てもいいということでかえって荷物が少なくてすむ。GW期間中でも、旅行費用も3食・観光すべてついて20数万円(ハイシーズンでなければ18万円前後)。お小遣いもペルシャ絨毯を買わないかぎりほとんど要らないだろう(実際に夫と2人で3万円を使っただけだった)。そういうわけで私と夫、そして私の両親は、21人が参加するジャルパックの人となったのであった。

イラン──地理的・歴史的に広大な国

 イラン(正式にはイラン・イスラム共和国)はひと言で言うと「広大な国」である。国土面積が日本の4.5倍で、北はカスピ海、南はペルシャ湾、オマーン湾に面し、東にはキャヴィール沙漠が広がり、西にはザークロス山脈が連なる、という地理的環境だけではない。

 時間的にも、紀元前6世紀半ばに成立したアケメネス朝ペルシャから綿々と続く複雑な歴史があり、これまた広大である。マケドニアのアレクサンダー大王、アラブ人のイスラム勢力、セルジュクやオスマンというトルコ系民族、中国北方のモンゴル、そして西欧列強、ロシアと、イランは2500年の歴史の中で、たえず東西のさまざまな民族から力による支配と、文化的影響を受けてきた。

 時間軸も空間軸も広大に広がっており、そのために文化は重層的だ。四次元的に厚みと広がりがあるのがイランの大きな魅力である。

 同時に、それがとらえにくさにも通じる。私の身に染みついた、多分に西欧的な地理歴史観では推し量れないものがイランという国にはある。民族とか国の成立の仕方に、感覚的にわかりづらいところがあるのではないか。

 到着して2日目。南西部にあるシーラーズという町を訪れたときに、早くもそれを感じた。

詩人が英雄の国なのだ

 テヘランから飛行機で1時間20分ほど。シーラーズはアケメネス朝ペルシャが起こった旧い町である。
 この町の見所はペルシャの偉大な詩人たちの廟。サアディーとハーフェズという2人の詩人は、イランの人たちの英雄で誇りである。根っからの理系人間で実務家の夫は「詩人が住んだ家を訪ねるだと? それはつまらないなあ」とぶつぶつ。
「日本だったら詩人なんて霞食って生きている変人の扱いだよ。それがペルシャでは、その人の家が観光地になっちゃうわけ? わかんないなー」とバラが咲き乱れる庭園を歩きながらも文句たらたらこぼす。
 
 それはともかく、軍人や王様ではなく、なぜ詩人が称えられるのか──そこにイランが広大な歴史を持ち得たカギの一つがあるのではないか。隣合った国(西からイラク、トルコ、エレバン、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタン)やもっと離れた大国と交流や融合を重ねながらも、独自の言葉をつらぬくことによって民族的強靱さが養われたのではないだろうか。

 廟に書かれた詩をガイドさんが読んでくれたが、流れるようなリズムで、意味内容(恋の歌だとか)がさっぱりわからない私の耳にも音楽的に心地よく聞こえた。1325年から1389年までシーラーズで生まれて没したハーフェズという詩人は、幼時からクアルーン(コーラン)を暗唱できたので、暗唱者という意味のハーフェズという名前を与えられたのだそうだ。そういえばクアルーンも詩みたいなものだ……といったら怒られるか。

 イラン人である誇りとよりどころを支えていたのがペルシャ語であり、それを美しい形で語り継いでいった詩人が英雄になる国。テヘランやイスファハンというほかの町のあちこちにも、詩人の銅像があった。偶像崇拝を禁じるムスリムの教えの中でも、詩人だけは例外。イランの国としての強さと誇りは、きっと詩の中に見いだせるにちがいない。

日本なら何を貢ぐか?──ペルセポリスへ

 ペルセポリスはシーラーズから1時間ほど。イラン観光の目玉 だ。ちなみにペルセポリスは「ペルシャ人の都」というギリシャ語が起源。イランでは「タフテ・ジャムシード=ジャムシード王の玉 座」と呼ばれているとか。紀元前512年ごろアケメネス朝ペルシャのダレイオス1世が建設に着手し、その子クセルクセス1世が完成。行政上の首都スーサに対して、宗教的な儀礼を行う宮殿として利用された。だが紀元前331年にアレクサンダー大王にて破壊され、いまはその一部しか残っていない。

 松林を抜けてバスから降りると、まず目に飛び込んでくるのが階段と林立する巨大な石柱。真っ青な空に黄灰色の山と柱が映える廃墟は、ちょっと感動ものの光景である。こまかい観光案内はさておくとして、なんといってもおもしろいのは「謁見の間」の階段のレリーフ。近隣の二十三の国から貢ぎ物を持ってやってきた使者たちの姿が描かれている。

 一番金持ちだったメディア人は金や靴下、つぎにイラン人がライオン、アルメニア人は馬といった当時にしてはカネのかかっている名産品を持っている。馬車、ラクダ、羊、ウール、スパイス、ロバなど多用な貢ぎ物も興味深いが、かぶっている帽子や髪型、服装、靴にそれぞれの民族の特長が出ていてそれもおもしろい。パレスチナ人がスカートをはいているとかね。一番貧乏とされているのがエチオピア人で、貢ぎ物はキリン。そう、キリンがこの階段を昇ったのね、と2500年後の日本人である私も感慨深く昇る。

 日本からの貢ぎ物は、そうねえ、もしかしてオイルマネー? イランではリッター400リアル(2.5円ほど)だというガソリンが、日本では50倍だものねえ。

水を征した都、イスファハン

 ペルセポリスから中部の都市イスファハンまでは、バスで7時間かかった。ザークロス山脈の山を越えていくのだが、車窓に広がるのはひたすらに赤と灰色を混ぜ合わせた土漠。ところどころに水が引かれているのか緑の麦畑があり、白っぽいレンガで建てられた家々の集落がある。

 単調さを破るのは、遊牧民と羊の群。黒、茶、白のいかにも毛が太そうな羊の毛はせいぜいセーターくらいにしかならないだろうと、元・国際羊毛事務局広報部員として推測。絨毯用にするにも、毛質も色も使いづらいはず。肉用としてもラムしか硬くて食べられないのではないか? 品種改良を進めればいいのにとつい、いらないお世話なことを考える。ただ、灌木の茂みとともに点在する羊はよく似合っていて、景色としては美しい。

 イスファハンのホテルはザーヤンデ川にかかる「33の橋」のすぐそばに建っていた。土漠を走り抜けてくると、とうとうと流れる川の水量にこの町の豊かさを感じる。「水がありゃ勝ちなんだ。水を征するものが、国を征すだな」と夫。イスファハンがその豊かさと美しさを「世界の半分」と称賛されたのも、その水量と緑のおかげだ。

 1597年にサファヴィー朝の王様アッバース大帝が、首都をおいたイスファハンの都市計画を推進した。宮殿やモスク、橋などの建造物、それにバザールで売られている絨毯、細密画、陶器、タイルなどにペルシャ芸術の粋を集めたと感じさせる都市だ。日本でいえばさしずめ京都か。

 中心となるエマーム広場は、510メートル×163メートルの広さで、マスジェデ・エマーム寺院、アーリー・ガープ宮殿、バザール、王族専用のシェイフ・ロトゥフォッラー寺院に囲まれている。ペルシャン・ブルーを基調にし、サフラン・ライスのような黄色、ピスタチオのグリーン、(たぶんペルシャ湾の)濃いブルーを配したタイルでできあがったモスクは、一見の価値あり。世界遺産になっているのもよくわかる。タイルでできあがった外壁や内装の紋様の細密度にも舌をまくが、圧倒されるのはその対称性のほう。日本の建造物の非対称の美とは、まるでちがう「精密に計算された美」がそこにはある。

日本文化の使者、「おしん」

 イランでは6月の学期末試験前に休暇があるそうだ。で、その休暇中にガリ勉するのではなく、ばっちり遊んじゃというのかどうか、イランの京都イスファハンは各地からやってきた学生たちでいっぱい。そしてまた12歳から18歳くらいまでの学生たちが、まあ好奇心旺盛でものおじしないことといったら!
 目が合うが否や、ほんの少しだけ恥じらいながらも近づいてくる。

"Where do you come from?"
"Japon"とにこにこ笑って答えると、恥じらいは消えて大胆になる。
"Can I speak with you?"もしくは"Can I take your picture?"と来る。
 いいわよ、なんて言おうものならとたんにどっと囲まれて、さながらファンに囲まれたスター。

 イランは好きか? どこが好きか? 食べ物では何が気に入ったか? おみやげは何を買ったか? と聞き、つぎに日本のどこに住んでいる? イラン以外に旅行した国でどこがよかったか? と矢継ぎ早。そしてサインを求められ、写真を撮られる。
 そこで覚えたペルシャ語「エス・メ・ショー・マチエ? あなたの名前は何?」と聞いて、ノートに彼ら彼女らの名前をカタカナで書いてあげると、もう大興奮。夫は蝶々のアクセサリーを、私はバラの花をもらった。中には「2000リアルあげるから、一緒に写真を撮らせてくれ」という男の子集団まで出現。「お金はいらない。一緒に写真を撮ろう」と言うと、しっかり肩に手を回してきた。ははは、16歳の男の子に肩を組んでもらうのは、たぶんこの先一生ないでしょう。

 イスファハンばかりではない。ほかのどこの都市でも、テヘランでさえも私たち日本人は子どもたちから大人までにしょっちゅう話しかけられ、写真を撮られ、いろんなものをもらった。

 異邦人に対する飽くなき好奇心と愛想のよさ。片言だろうが、堂々と話しかけてくるものおじのなさ。「日本の中学・高校生とはずいぶんちがうわねえ。日本の若者にはこんな活力はない。無気力・無関心だもの。イランはこの子たちが大きくなるころには大きく変わるわ」と母。「子どもを見ているとその国の持つ潜在的エネルギーがわかるね」と父。その父はあちこちでお年寄りから「おしんを見ている」と声をかけられ、しまいにサインを求められると「おしん」と書いてサービスしていた。

 もちろんイラン人が日本人に親近感を抱いているために、これほど愛想がいいのかもしれない。でも、もしかしたら「おしん」が日本文化を伝える文化大使になっているのかも。だが、おしんに見る日本人像のどこに、エネルギッシュなイラン人は共鳴しているのだろうか?

鳥葬と風採り塔の町、ヤズド

 イランのほぼ中央に位置するヤズドは砂漠の中にあるオアシスの町だ。宿泊したホテルには「第一回カナート開発研究国際シンポジウム」が開かれるとポスターが貼られていた。カナートとは高い山から流れている地下水で、オアシスの町ではそれを汲み上げて生活用水としている。

 いまでは水道が引かれたそうだが、ヤズドの町にはいくつもこのカナートのドームのような形の土の井戸と、その水を冷やすためのバードギール(風採り塔)がある。いまヤズドは「近代的都市」へ脱皮を図ろうとしているところで、伝統的な井戸のドームやバードギールをはじめ、土壁でできた住宅も壊されて鉄骨と近代的建材による建物に建て替えられている。伝統的街並みを保存の動きもあるそうだが、たぶん数年して訪ねたら、町の様相は一変しているのではないかと思われるほど、開発は急ピッチで進んでいる。日干しレンガと土塀でできた家並みは、日本のむかしの民家のように機能的で美しい。なくすには惜しいのに、と旅人はまた勝手なことを思う。

 観光の目玉 は町外れにあるゾロアスター教の墓場「沈黙の塔」。荒漠とした丘のてっぺんに作られた円形の塔の中は、石畳が敷かれていて、中央に直径二メートルほどの穴が開いている。ゾロアスター教(拝火教)の信徒たちももとは土葬だったのだが、800年前に伝染病がはやったために、遺体を鳥(ハゲタカやカラス)に食べさせる鳥葬に切り替えたとか。

 遺体に刻み目をつけて食べやすくしたが、それでも1週間かかったという。石畳の溝を伝って血が中央の穴に流れ込むようになっていた。遺族は丘の麓にある家でその間待ち、骨になった遺体を麓の墓地に埋めたそうだ。赤い砂が広がる光景は、まさに「弔い」の背景としてふさわしい。

 だが、ハゲタカなんかいたのかなあ、というのがツアー全員の一致した疑問。ガイド氏は「いたんです!」と断定するのだが、小さな虫すらも見あたらない「死」の沙漠に、ハゲタカを棲息させるだけの十分なエサがあったとは思えないのだけれど。死体だってそれほど頻繁に出たわけではないだろうし。

650万の大都市テヘラン

 周囲を取り囲む4000メートルの山の頂上には雪が残る、標高1200メートルにあるテヘランは大都会である。なにせ車が多い。車線は引かれていても走り方はデタラメ。信号が少なく、大通りは決死の覚悟で渡らねばならない。だからよけいに混雑しているように感じられる。排気ガスでうっすらと曇っている空を背景に、高層ビルが建ち並ぶ。チャードル姿の女性たちや、ペルシャ文字の看板が目に入らなかったら、欧米の都市となんら変わりはない。

 考古学から宝石まで博物館を駆け足で一日に5つも見たのだけれど、感想は「やっぱり富はある程度平等に分配されなければいけない。革命は必要だったのね」という単純なこと。

 シャーの時代に造られたサーダーバード宮殿で、巨大な絨毯だの、チェコのシャンデリアだの、フランスやイタリアの極上の椅子やベッドだのを見せられ、宮殿を取り囲むように建っているそれはそれは豪華な高級住宅地を走ると、オイルマネーってすごいのねと実感。そしてまたその富が、ほんの一部の人たちの贅沢品にだけ使われた矛盾にも気づく。1979年のイスラム革命は起きるべきして起きたのだ。

 だが、この国は欧米式近代化ではなく、イスラム式近代化モデルをいまだに模索している最中だ。いま力を伸ばしている改革派が唱える、社会や政治、経済の「改革」の方向がどこに向かっているのか。テヘランの街のいたるところで見かける革命警察が、改革派の動きをどう抑制しているのか。シャネルやグッチのロゴの入った黒のスカーフを巻きながらも、黒いコートを手放さない女性たちの姿を見ながら、この国ではまだまだ「革命」が進行中なのだと思った。



以上、駆け足の8日間イラン・ツアーの概要です。
あと4回に分けて、イランの女性の話、食べ物、ペルシャ語と音楽、男女交際についてふれてみたいと思っています。乞うご期待!
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