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誘う乳房
60年代――乳房はどんどんおしゃれになる(2)

グラマーとプリティのドッキング

 五○年代は「グラマー」な女優やモデルが大いにモテた。京マチ子、前田通子などBWHのメリハリがはっきりしていて、肩幅も広く、骨格がしっかりとしているグラマーこそが美人のスタンダード。スタイルのよさだけでなく、性的にも魅力的というニュアンスも含む「グラマー」というホメ言葉は、女性よりも男性たちの憧れだった。
 それが60年代に入ると少しずつ変わってくる。少女的エロスの発見もその一つだし、ハーフの魅力に注目が集まるのも一つ。メリハリ・ボディに対する羨望は衰えてはいないが、そこにもう少し日本的なかわいらしさ=プリティを感じたい、というのが日本人男性たちの願いではなかったのだろうか。セクシーでいて処女のように清潔感がある、メリハリボディでいて日本的楚々とした美人、天使のように純情で悪魔のように妖しい魔力がある……一人の女性に相反する魅力を兼ね備えるように求めるあつかましい男性たちがぐっと増えた。

ダブルの魅力――前田美波里のサマーキャンペーン

 思えば60年代はさまざまな価値観が「ダブル」になっていく時代だった。たとえば女性解放運動が盛んになったアメリカでは、ステレオタイプな男らしさ、女らしさに対して異議が申し立てられるようになる。外見だけをとっても、男性が「女みたいな」ロングヘアになり、女性はTシャツにジーンズの「男みたいな」カッコをして歩くことがかっこいいとされた。男性的なところと女性的なところに引かれた境界線をぼやかし、両方の魅力をミックスした「ダブル」な魅力を求めていこうとする流れが生まれてきた。
 日本では男らしさ/女らしさの「ダブル」以上に、こと女性の肉体美に関しては、基準もしくは理想とされてきた西欧的グラマラス・ボディに、日本的なプリティを合わせて、西欧的でも日本的でもある「ダブル」の美しさや魅力を見出していこうとする動きがあっても不思議ではない。それを体現したのが、ハーフのモデルたちだった。
 1966年、資生堂は夏向きの化粧品を売るためのサマーキャンペーンを開始する。日本的な「夏の浜辺」ではなく、西欧的な「ビーチ」で満喫するサマーバケーションにふさわしい化粧品だ。美しく日焼けして小麦色の肌になるためのビューティーケイクというファウンデーションやサンオイルのCMに起用されたのが、当時17歳だった前田美波里。ハワイのビーチで、白い水着からこぼれるような胸を惜しげもなくのぞかせた大胆ポーズで、こちらをぐいと見据えているポスターは衝撃的だった。当時12歳だった私は、近所の化粧品店に張られたポスターが欲しくて欲しくて、店長のおじさんに「キャンペーンが終わったらください」とお願いしていたのに、張ってから一週間もしないうちに盗まれてしまったといわれた。日本全国で同じようなポスター盗難事件が勃発し、このポスターそのものが社会現象とさえいわれたほどだ。

健康的エロチシズムが市民権を得る

 前田美波里のCMについて、『広告批評』編集長の島森路子氏がこういっている。「肉体の美しさが野性的なエロチシズムを伴って提示された、最初の広告と言っていいかもしれない。資生堂自身が長いあいだ培ってきた伝統的な“清楚”イメージが打破されて、“健康的な性表現”が初めて広告の上で実体化した、とも言われた」(「広告のヒロインたち」岩波新書)
 島森氏のいう「健康的な性表現」は、たぶん前田美波里のグラマラス・ボディにある。そしてまだどこか幼さを残したその顔立ちは、目鼻立ちがくっきりしていてエキゾチックではあるが、日本的な要素も多分に残していてプリティである。グラマー・プリティとでもいいたい「ダブル」の魅力によって、このポスターは衝撃度を倍くらい高めている。
 もちろんそれまでにも、日本では水着のCMがなかったわけではない。ミス・コンテストでは水着審査があたりまえになっており、水着を着たグラマラス・ボディのイメージは食傷気味なほどマスコミ媒体にあふれていた。だが、ハーフのモデルたちの肉体表現には、なぜかスキャンダラスなところがなかった。純粋日本人、純粋西欧人に感じるような、秘められたエロスを感じさせない。日本的な容姿を残していることで、「隣の女の子」的な親しみやすさはあっても、西欧的グラマラス・ボディによってちょっと手が届かない感じがする。その適度な距離感が、たとえヌードに近い姿であっても、危険なエロスを生み出さないのではないか。だからこそ、化粧品のCMという何よりもスキャンダルから遠いところにいなくてはならないところで、ハーフのモデルたちが使われたにちがいない。
 この衝撃のポスターのあと、化粧品のみならず、アパレル関連、水着など、女性向け商品につぎつぎとハーフのモデルたちが起用され、どれも大きな話題を呼ぶようになった。七○年代には秋川リサや杉本エマといったスターも生まれ、グラマーとプリティが「ドッキング」(宇宙時代の幕開けだった60年代には、宇宙でアメリカとソ連の宇宙船をつなぎあわせるときに使われたこの言葉も流行語だった)された「ダブル」の魅力は、いまにいたるまで綿々と続いていくのである。

打ち破られた「脚見せ」のタブー

少女の発見の例に見るように、60年代は西欧をはじめとして世界的に「ユースクエイク」(直訳で若者を震源とする地震のような社会変動)が起こった。60年代に10代であることは特権だったし、20代であれば時代の主役になれた。それまでの男性中心・エスタブリッシュされた階級の社会に異を唱えて、マイノリティとされてきた人たちが権利を求めて声をあげるようになった。白人種以外の人種、女性、そして若者たちが社会的・文化的に台頭してきて、新しい波をつくっていった。
 ファッションの担い手も若者に変わった。60年代は西欧のファッションに「革命」といっていいくらい大きな動きが起こり、それまで女性たちを縛ってきた性のタブーがつぎつぎと打ち破られていく。その一つが「脚を見せる」ことである。西欧世界では二十世紀半ばまで、セクシャルな意味でのタブーは胸を見せることよりも脚を見せることのほうにあった。長いスカートによって隠されている女性の脚または足に男性の性的妄想はかきたてられる。乳房は乳首以外はかなり露出されていてもお咎めはなかったが、脚を見せることには社会的に大きな抵抗があった。二十世紀、女性の解放の度合いは脚をどこまで見せるかによって測られていたといっても大げさではない。女性のファッションを解放したといわれるシャネルでさえも、腿まであらわにするスカートはつくらなかった。
 そこまで堅固だった「脚のタブー」が打ち破られたのが1965年。フランスのデザイナーであるアンドレ・クレージュが発表した「ミニスカート」は、女性が自由に活動できることを約束しただけでなく、性の解放についてもゴーサインを出した。衝撃はヨーロッパ、アメリカのみならず、ファッションにも性にももっと保守的といわれていたアジアにも及んだ。日本でも膝上20センチ、30センチのミニスカートをはいた女性が街を歩くようになる。積極的にこの流行を取り入れたのは、10代、20代の女性たち。経済力がないために、めまぐるしく移り変わる流行とは無縁だろうと考えられていた若い女性が、この時期を境に日本でもファッションの主導権を担うようになった。

セクシーの常識を打ち破った「ヤセ」の女王

ミニスカートの流行によって、世界的に知名度の高いファッション・モデルとなったのがイギリス生まれのツィッギーである。「小枝」という名前にふさわしく、身長167センチ、体重41キロ、BWHは79-56-81という痩身体型。ツィッギーはバストがたったの79センチしかないかぼそい妖精のような女の子(デビューは15歳)で、しかもファニー・フェイスでけっして美人とはいいがたい。だがたちまち売れっ子になって、ヴォーグやエルなどファッション雑誌の表紙をつぎつぎに飾り、ついにはニューズウィークの表紙にも登場して「1966年の顔」とまでいわれた。ツィッギーはもはやファッションの世界だけの人気者ではなく、大きなうねりを象徴する社会現象となったのである。
 ツィッギーはそれまでの女性の身体意識を二つの意味で大きく変えた。
 一つは、やせていることの価値観を高めたこと。BWHのめりはりのあるカラダが女らしい、という「常識」を彼女は打ち破り、かわりにやせていればやせているほどおしゃれでかっこいいと訴えた。おかげで太めの女性は肩身が狭くなり、ダイエット・ブームが本格化する。

一生若くなくてはいけない!

もう一つは、「若さこそがすばらしい」と認知させたことだ。西欧社会にはそれまでも若さ賛美はあったが、あくまでも老化と対比しての若さであって、成熟することにためらいはなかった。だが、ツィッギーのカラダは若さ=未成熟であることのパワーを認識させた。年齢による単純な枠組みで若さを測るのではなく、スタイルやファッションという外見、流行にどれくらい敏感か、といった要素で年よりと若者が区分けされていく。社会的に責任がとれる年齢になっても、カラダや感性は若者であるほうが望ましいとされるのだ。そしてカラダの若さを象徴しているのが、ツィッギーのように肉のついていないすらりとした脚であり、ほっそりとした体型。そして大きなバストは成熟した大人をあらわしている、と急速に人気を失っていった。
 男女の境目をなくすユニセックス・ファッションが流行したこともあって、BWHのめりはりがきいた「女らしい」カラダはおしゃれではないとされた。むしろ薄い胸、細い腰の男の子のようなひょろりとしたカラダが「はやり」となった。
 ツィッギー人気はまためりはり体型に注目が集まる70年代に入って、存在が薄れていく。モデルとしてもほとんど見かけなくなったと思ったら、80年代後半になってミュージカル・スターとして復活した。ちょうどそのころ、ケイト・モスをはじめ栄養失調ではないかと思えるほど痩身のモデルの人気が高まっており、ツィッギーもなつかしの60年代ファッションに身を包んで雑誌のグラビアに登場したりしていた。ファニー・フェイスも、七キロ太ったとはいえ、ほっそりとした少年とも少女ともつかない体型もそのまま。60年代には病的なほどやせていると考えられていたが、八○年代末あたりにはそのやせ方が「健康的」と賛美されていた。
 やせていること、若いこと――現在にいたるまで女性たちに、強迫観念に近い形でこの2つをツィッギーは植えつけた。彼女が流行させたミニスカートは、本来ならば女性を解放するファッションだったはずなのに、その体型によって女性たちにあらたな束縛を与えたというのはなんとも皮肉である。

空前の一億総被写体ブーム

 1964年。フジカシングル8というカメラが発売され、和服の女性がにっこり微笑んで「私にも写せます」というCMが話題を呼んだ。カメラが爆発的に普及していくこのころから、日本人は一億総被写体化していく。誰も彼もがカメラを持ち、撮ること撮られることに抵抗がなくなった。鏡で見る自分の姿より、写真という二次元で確認する自分のほうが「リアル」に感じられるほど。そしてまたテレビが普及して、気軽に動く画像が見られるようになると、その人の本質以上に、「どう見えるか」「どう写るか」のほうが重要になっていく。
 とくにテレビは残像効果があり、静止しているよりも動いているほうが太って見える、ということもあって、タレントや俳優はやせていることが至上命令になった。当時人気だった浅丘ルリ子は体重が30キロなかったことが話題であり、かつ人気の要因でもあった。戦前から戦争中にかけて、食べることに必死だった時代からたったの20年しかたっていないのに、いまやいかに食べないでやせていられるかを人々は問題にするようになったのはなんとも皮肉である。

タレント・ダイエット本のはしり「ミコのカロリーブック」

 やせたことで話題と人気をかっさらった芸能人の第一号は、弘田三枝子だ。1961年14歳のときに「こどもじゃないの」というポップスでデビュー。アメリカのヒットチャートを日本語に訳詞したジャパニーズ・ポップスが流行した時期の歌手だ。リズム感も声もアメリカン・グラフィティを表現するのにぴったりと迫力で、やや太めの体型もキュートな顔立ちも、かわいらしいと人気者だった。だが、「可愛いベイビー」の大ヒット後、六五年あたりから、テレビで見かけなくなった。ビートルズの登場で彼女の得意とするポップスの人気にかげりが出たこともあるが、もう一つころころとした「健康的」体型がいまいちはやりのカラダではなくなったことがある。
 ところが1969年に、弘田三枝子は見違えるような姿で再デビューする。丸かった顔が面長になるほどやせ、手足もすっかり細くなった。「人形の家」という歌も大ヒットしたが、それ以上に話題を呼んだのが、彼女がダイエット方法をつづった「ミコのカロリーブック」という本だった。空前の大ベストセラーとなったこの本は、食べ物のカロリーで体型を変えるという発想を広めたことである。栄養学で使われていたカロリーという言葉が、にわかにやせるための呪文として脚光を浴びた。科学的でモダン。流行のカラダをつくりあげるためには、やはり方法も現代的でなくては。そう信じた女性たちは、一日食べたもののカロリーを計算しては一喜一憂するようになる。

「人形の家」に閉じ込められる女性たち

 イプセンの戯曲「人形の家」のノラは、家を出ていくことでつらくても「自分」を取り戻そうとする。だが弘田三枝子の歌う「人形の家」の主人公は、人形みたいにきれいになって、なんでもいうことを聞こうとしたのに、それがおもしろくないと出ていく男への恨み節だ。時代が女性を解放しようとするベクトルにふれている中で、逆行する演歌のような歌でカムバックした弘田三枝子が、それこそマネキン人形のようにやせていた、というところにこの時代の身体意識の矛盾を見るようだ。
 「どう見られるか」「どう写されるか」。視線を他者に預けたままで、ダイエットに、整形にと励む女性たちが、本当の意味でのカラダの解放を意識しはじめるには、もう少し時間を待たねばならない。

初代ボンドガール、浜美枝

 藤原紀香さまはボンドガールになりたいそうだ。かっこいいもんね。セクシー、プラス、インテリジェンス、プラス、運動神経と、三拍子そろった女、という証明である。紀香さま、ぴったり。
 日本初代のボンドガールの一人が、浜美枝である。小柄ながらめりはりのあるボディは「和製トランジスタ・グラマー」といわれた。一九六七年の「007は二度死ぬ」に登場したとき、その愛らしさとスタイルのよさで、世界的に注目を集めた。フジヤマ、芸者、しとやか、従順だけでない日本女性を、浜美枝演じるボンド・ガールはアピールしていた……といいたいところなのだが、いまあらためてこの映画を観ると、いい加減な日本の描写、あやまった日本女性のイメージに失笑を誘われる。ボンドをかっこよく見せるためのストーリーと割り切ればいいのだろうが、それにしても……。だが、いま観ても浜美枝はかわいくてすてきだ。

こじんまりとした和製グラマー

 当時のマスコミの論調もそうだったが、浜美枝ほか日本人ボンドガールの抜擢は、ミス・ユニバースで日本女性が優勝するくらいのインパクトがあった。というよりか、ミスコンと同じような扱いをされていた。「日本人離れした体型」「日本女性は西欧女性にも美しさの点で肩を並べた」という口調。だが、スクリーンでの浜美枝は、もっと純粋日本人女性の愛らしさやぴちぴちした感じを表現している。そして西欧人にはないセクシーさがある。物腰がどこかおっとりとしていて、顔の造作やカラダも繊細。それまでのボンドガールの、非常に美しいけれど、どこか雑で大雑把な感じとは一線を画している。
 バストもこじんまりとしていて、これみよがしに挑発するような強さはない。胸元を強調していても、女性の私でも安心して見ていられる感じである。
 浜美枝がこの国際的に公開される映画に出たことで、世界の人にはもちろんだが、むしろ日本人に「日本的セクシー」「和製グラマー」の持つ魅力を悟らせたのではないだろうか。カラダの審美眼についても、西欧信奉一辺倒から、もっと複合的に日本的なものと西欧的なもの、またアジア的なものを重層的に見ていこうとする流れができつつあった。
 だから浜美枝のボンドガール抜擢は、50年代のミスコン優勝と本質的に異なる評価をくだすべきである。乳房の美しさを測る基準、そして乳房の商品としての価値は、70年代にはもっと複合的になっていく。キャッシー鈴木(浜美枝のボンドガールとしての名前)の活躍は、その前触れといってもいい。

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