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誘う乳房
「1950年代――カラダの戦後復興は乳房から始まった」(2)
 隠すVS見せるテクニックのはじまり

 女の私にはなかなか感覚として理解しがたいのだが、女性の裸を見たい、ちらりとでも見えると得をしたような気分になる、というのは、どうやら男性のサガってもんらしい。
 だが、もしほとんどの女性が裸で歩いていたらどうだろう? もしくは裸同然の姿で外に出ることが、社会的常識なのだとしたら。たぶん、誰も裸なんかに血眼にならないはずだ。「裸が恥ずかしい」という感覚は、先天的な本能なんかじゃなく、社会によって後天的に植えつけられたものである。恥ずかしいから、隠す。隠すから、見たくなる。そこから発展して、見たくなるように隠す、もしくはもっと見たくなるように、隠しながら見せる、というテクニックも発達していく。隠さなくてはならない、とモラルも複雑になっていく。
 こと乳房に関しては、隠すVS見せるのせめぎあいのテクニックが発達していくのが1950年代である。乳房をどこまで、どんな形ならば見せてもいいのか――その暗黙の掟が時と場所によって複雑に分岐していくのも、1950年代だ。
 テクニックとモラルを発達(だが混沌とだかわからないが)させていく大きな原動力となった一つが、いうまでもなく「ブラジャー」の普及である。

 ブラジャーがバストを格上げする

 戦後、一気に洋装が進んだときに売れた下着は、ブラジャーよりもストッキングであり、パンツであり、ペチコートだった。1950年前後の第一次下着ブームはウエストから下のほうに集中している。この時点では、人々はこれまで隠されていた脚にセックスアピールを感じ、隠すVS見せるというテクニックは脚とヒップのほうに重点がおかれていた。
 ところが1955年ごろから、こんどはブラジャーが急成長して「第二次下着ブーム」が始まり、60年代に入るまで続く。セックスアピールはがぜん上半身に移った。ブラジャーは体型を整えること以上に、形や大きさを誇示する役目が期待される。それまでノーブラでも平気だった人までもが、ブラジャーの普及によって、急に「乳房を隠さないと恥ずかしい」と羞恥心をおぼえるようになった。
 人前で授乳する光景が、野蛮でみっともないとされるようになるのが1950年代半ば以降である。(授乳そのものがかっこ悪くて、赤ん坊にもよくないとされるのは1960年代にはいってから)
かつては赤ん坊のミルクタンク程度としてしか存在を認められていなかった乳房が、ブラジャーで隠されることによって一気に性的魅力をアピールするシンボルとして格上げ(格下げか?)された。人気メディアだった映画で、ブラジャーやビキニトップを取ることが、ドキドキさせる性的表現として定着するのも55年以降である。

 口紅とともに前年対比200%の急成長

 同時にブームになったのが口紅だ。マリリン・モンローをはじめとする50年代に人気のあったハリウッドのスターたちは、唇を厚ぼったく見せるように口紅をぼってりと真っ赤に塗った。それを半開きにして、男性を悩ましげにみるのが、たいへんにわかりやすいセックスアピールだった。「官能」の表現は、真っ赤な唇と真っ白の肌の対比にあったといっていい。口紅を塗られた唇は、ただの唇ではない。デズモンド・モリスにいわせると、一種の性器と化す。これまた塗って隠してしまうことで、誘うシンボルとなる。
 口紅とブラジャーは、歩調を合わせるように55年から57年まで前年対比200%の倍倍の売上で市場を拡大していく。隠すVS見せるというテクニックを駆使される場所として、唇と乳房があらたに加わったことの証明である。この時期、reproductive age つまり生殖可能年齢にある女性の大半が、この2つを買い求めたのではないか。女らしさの演出が、しぐさや表情ではなく、カラダそのものによってなされるようになったはじまりが、第二次下着ブームであり、口紅ブームであったといえる。

 バストと脚、セックスアピール交替説

 隠すVS見せるのテクニックを駆使して、セックスアピールを演出するカラダの部位 は、上半身(バスト)と下半身(ヒップから脚)が5〜10年単位で交互にやってくる――私が作った説だ。
 1946〜1954年までは脚。1955〜1962年はバスト。1962〜1970年はまた脚。1971〜1980年はバスト。1981〜1989年までは脚。1990〜1999年まではバスト。いまはまだどちらとも行きかねている状態である。
 どちらにセックスアピールの重点がおかれているかの判断基準は、女性誌に「美脚の作り方」が掲載されるか、それとも「美しいバスト」についての記事が多くなるか、が一つのめやすとなる。また男性グラビア誌で、どちらにフォーカスがあっているかを見ると一目瞭然だ。
転換させる力があるのは、ファッションと社会現象である。ミニスカートがはやると当然脚に注目が移るし、ノーブラやニットがはやると視線はバストに移行する。また社会全体が若さにあふれてイケイケムードのときには視線は「脚」に集中し、社会が成熟して退廃気味になり、閉塞感さえ感じられるときには「バスト」へと転換する。「交替説」は仮説ではあるが、日本のこの50年に重ね合わせると、かなりあたっていると自信がある。

 「狂った果実」に見る「作られた野生美」

 それならばバストに視線が向きはじめた1955年はどんな年だったのか。輸出が増大し、電気製品をはじめ国内需要も増大して、神武景気と呼ばれた。マンボスタイルが流行し、ファッションの主導権を若者たちが握りはじめていた。その一方で、戦後の混乱と復興がひと落ち着きして、一種の空虚感も漂っていた。
 生活が上向いてきた中流階級の台頭と、そこに漂う退廃的空気を敏感にとらえ、若者の風俗を描いて大ベストセラーとなったのが、現石原東京都知事が書いた「太陽の季節」である。1955年に芥川賞を受賞。翌年、長門裕之、南田洋子の主演で映画化され大ヒット。この映画に端役で出演した弟の石原裕次郎は1956年に映画「狂った果 実」で初主演している。
 「狂った果実」は、ヒマを持て余した金持ちの兄弟が、一人の女をめぐって争うというストーリーだ。注目したいのは舞台が海辺だという点である。そしてこの映画で話題になったのは、裕次郎の脚の長さもさることながら、「ゴールデンボディ」といわれた北原三枝の水着姿だ。

 リゾートでしか許されないバストの強調
 北原三枝はBWHのメリハリのきいたカラダで、バストからウエストにかけてのラインが美しいと評判だった。だが、その美しいボディを披露するのが許されるのは、自然、それもリゾートという作られた自然を、バックにしたときだけだ。メリハリ・ボディは、都会では不道徳のそしりをまぬ かれない。都会では脚を出すことまでは許されても、胸元があいたドレスを着ただけで非難の的になる。北原三枝は米軍将校の囲い者という役柄で、せっかくのゴールデンボディだというのに、東京都内で少しでもそれを感じさせる服を着ると「ふしだら」と後ろ指をさされる。
 だが都会から一、二時間離れたリゾート的海辺ならば、水着を着てそのボディ(とくにつんと突き出たバスト)を惜しげもなくさらして賞賛を集めてしまうのだ。ヨットの浮かぶ海をバックにすれば、乳房を強調する水着姿だって、たちまち「健康美」「野生美」として認められる。都会に付属する「作られた自然」のリゾート地が大衆化していたこと、そして、リゾート的自然の中で映えるのが「作られた野生的セックスアピール」であったことが、この映画では読める。ついでにいえば、裕次郎の「野性的肉体美」もヨットの上だからこそ映えるのであって、これが漁船だったらさぞかしかっこ悪かっただろう。
 バナナボートに乗ってはじけたダンサーのカラダ

  高度成長の波に乗って、工業化・都市化がどんどん進行しようとしていたそのころ、海や山のリゾート地への憧れもめばえつつあった。戦前には一部の上流階級のものだった「避暑」の習慣が、そのころには中流階級、とくに若者たちの間に浸透しはじめる。
 まずファッションでカリプソ・スタイルというのがはやった。98年ごろからリバイバルして、渋谷や新宿にはカリプソ娘が大勢歩いていた。七分丈のぴったりとしたズボンに、派手な色のアロハシャツ。胸の下でしばっておへそを見せる大胆さだ。男性たちも短めのパンツにアロハを着た。
 そしてカリプソの女王といわれたのが、浜村美智子である。「デーオ、デエエオオ」というかけ声で始まる「バナナボート」という歌でデビューを1957年にデビューを飾った。野茂英雄がメジャーリーグ入りしたあと1995年に、「ノーモ」の替え歌で再登場していたので、そちらのほうで覚えている人のほうが多いだろう。
 デビュー時にレコード会社が彼女につけた宣伝文句は「現代のセンセーション! 野生の肢体、官能の歌声」である。少し低めで艶のある声はたしかに官能的だったし、カラダは現代でも十分に通 用するくらいナイスバディである。何よりも引き締まっている。ダンサー特有の筋肉質なカラダで、しかもバストとヒップがパンとはっていてかっこいい。

 場所によって変わる乳房にまつわるモラル

 当時流行だったビキニ(それもぎりぎりまで露出している)とハイヒールで踊りながら歌うその姿は、セクシーというよりもワイルド。大きめの乳房も固そうで、垂れ下がることなど考えられないほど力強い。浜村美智子が「デーオ」とかけ声をかけて踊るとき、あたかも天岩戸の前で踊った巫女のような迫力があった。
 顔立ちは都会的だし、カリプソ・スタイルも本家本元の中米の女性が着ていりうものとは大きくかけ離れているが、浜村美智子のナイスバディは潮風の匂いがする「野生」を感じさせた。「バナナボート」の大ヒットのおかげで、彼女の背景にはつねに南の島のリゾート地があった。それにダンスで鍛えた筋肉は、都会の退廃をはねのけてしまう強靭さがあった。だからこそ、ビキニで舞台に登場しても、オールヌードが雑誌に掲載されても、許されたのだ。
 リゾートのような人工的な自然の中で、もっとも偏差値が高いのは「作られた野生のカラダ」である。そこでは乳房の露出禁止度は緩和される。隠すVS見せるのテクニックとモラルは、「作られた自然」の中ではぐっとゆるやかになる。浜村美智子の谷間まで見せたビキニスタイルが人気を集めたことが、それを証明している。

 そして少年少女の台頭

 1960年代に入ろうとするころ、乳房(と女性の官能美)に関して別の美的基準が取り入れられるようになる。それは未成熟な少女の魅力である。日の目を見たロリコンといっていいかもしれない。「太陽族」や「カリプソ族」を支えた若者たちよりもぐっと年齢が下がった、少年少女という世代が流行を引っ張っていく力を持ち始めたことで、乳房をめぐる状況はますます複雑になっていく。

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