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「1950年代――カラダの戦後復興は乳房から始まった」(1)
 「乳房はアクセサリーか?」論争

 1959年の週刊平凡に「乳房はアクセサリーか?」という記事が掲載された。これは北海道新聞に寄せられた投書をめぐっての議論を題材に、母乳や豊胸手術といった乳房をめぐる問題を取り上げている。そもそもの発端は三十四歳の主婦が、人工栄養で赤ん坊を育てられる時代だからといって、乳房を男性の観賞用のアクセサリーにしていいのか、と憤って投書したことから始まった。これに対して、人工栄養のほうが赤ん坊が大きく育つのだし、母乳をあげると乳房の形が崩れる、女性がいつまでも美しくあろうとするのはいいことなのだから、アクセサリーで何が悪い、という反論が寄せられ、大論争になったというわけ。

 美しい乳房は「女の義務」?

 論争の裏には、この年のミス・ユニバース第一位 に選ばれた児島明子さんが、乳房を大きくする整形手術を受けたニュースが報道され、話題になったことがある。美しくなることが絶対的な善とされ、そのための整形手術もいとわない――そういう価値観の幕開けを象徴する事件だった。
 そして女性としての美しさを計る第一のポイントとして、当時は乳房が重視された。顔を整形するのは躊躇しても、乳房を大きくする手術には抵抗がなかった。記事を読むと、豊胸手術には三万円かかり、夫がボーナスで捻出したという主婦の話が掲載されている。「ちょっと怖かったけれど、乳房が大きくなると、きれいになったとみんなにほめられて自信もつきました。子どもができても、美しくいることは女の義務ですから」と自慢げに主婦は語っている。義務! 乳房を大きすれば美しいと評価される。それが女の義務と考えられていたのだ!

 バスト美人の登場

 1950年代に入ってからの雑誌には、男性向け週刊誌、主婦向け雑誌を問わず、乳房の話題がひんぱんに登場する。「女体美は胸にきた」(1954年週刊読売)では、はじめて「バスト美人」という言葉が使われている。グラビアページには、ずらりと並んだヌード・ダンサーや下着モデルのバストをクローズアップした写 真。人体模型のように並べられた乳房は圧巻だが、エロチックではない。たぶんこのグラビアでは、乳房をエロスとしてこっそり観賞することではなく、女性の美しさは顔だけではなく、乳房にだってあることを天下に知らしめたいのだ。それはまた、男女ともに、乳房を「観賞」するだけの目はまだ十分に養われていなかったことの証とも見える。


 生産型乳房VS消費型乳房

 「乳房アクセリー論争」からわかるのは、乳房には二種類ある、ということだ。
 生産型乳房と消費型乳房、である。
 生産型乳房とは、突き詰めれば母乳を与えるための乳房である。子どもを産むことを前提にした乳房といってもいい。大きかろうが小さかろうが、そんなことは問題ではない。ましてや形や丸みなども関係ない。母乳がたくさん出ることが一番エライのだ。大きな乳房は労働するときに邪魔になる、という意味で非生産的にもなりかねない。よく働いて、丈夫な子どもを産んで、母乳がしっかり出ること。戦前まで(戦後もだが)女性に求められていたのは、生産型乳房だけだった。子どもを産まない、母乳が出ない乳房など、無駄 で邪魔でしかない。よい例がアマゾネスだ。アマゾネスは生産型乳房しか必要としなかった。だから弓を引くのに邪魔だからと片方の乳房を切り落とし、もう片方だけで授乳していた。
 もう一つは、消費型乳房である。異性・同性を問わず、他者の視線を惹きつけるための乳房だ。また女性としての自信や誇りを感じさせるための乳房である。だから形が問われ、張りが求められ、乳首の形から乳頭間隔にいたるまで問題にされる。より強く視線を誘いこむために、ブラジャーをして形を整え、垂れ下がらないようにマッサージをし、ときには整形手術も施される。お金や労力を消費してできあがる乳房は、他人の視線と自己満足しか生まない。もしかすると子どもと自分を養ってくれる男を獲得する手段になるかもしれないが、男を惹きつけておくために、「形が悪くなる」という理由で母乳を飲ますことはできず、粉ミルクを買わねばならない。あくまでも消費型の乳房なのだ。
 言うまでもなく、消費型乳房が登場したのは、戦後である。そしてこの二つの乳房のどちらを選ぶか、女性も男性も決めかねていたのが、50年代なのである。


 ミス・ユニバースの観賞する価値のあるカラダ


乳房だけでなく、女性のカラダそのものが戦後は消費型へと大きく転換する。着飾るため、おいしいものを食べて、スポーツやショッピングや娯楽を楽しむためのカラダが、大衆のレベルで求められるようになる。ただ見るだけ、見せるためだけのカラダも、もてはやされる。
 1953年、伊東絹子はミス・ユニバース3位に輝いた。戦後、とくに体型で西欧人にコンプレックスを持っていた日本人にとって、それはオリンピックの金メダル並みの栄誉。伊東絹子はたちまち大スターになり、そのプロポーションは日本人女性みんなの憧れになった。のちに映画に主演したり、ファッション・デザイナーとしても活躍するが、伊東絹子の価値は、あくまでもその「日本人離れしたプロポーション」を見せることにあった。性的な対象としてではなく、ただ見せることで商品価値を生むカラダは、彼女がはじめてである。

 「美人測定器」で美人を計る

 伊東絹子の人気がもたらした影響はもう一つある。それはカラダの美しさは計測できる、という認識を高めたことだ。彼女のスリーサイズは、86-65-94センチ。身長164センチ、体重52キロ。頭が小さくて、脚が長く、八頭身美人と呼ばれた。
 彼女が主演した映画『わたしの凡て』が封切られたとき、映画館の前に「美人測定器」なるものがおかれた。彼女のシルエットどおりに板をくりぬ いたものだ。するりと通り抜けられた女性には、映画の招待券が贈られた。20日間で数十人が挑戦し、通 り抜けられたのはたったの2人。そのプロポーションが、いかに「日本人離れ」していたか、わかろうというもの。
 実際に「美人測定器」で体型のちがいを認識した人以外は、彼女のサイズの数値と自分のを比較して、美人度を測った。当時の平均身長が153.9センチ、体重49.6キロ、バスト80.7センチだから、その差は歴然としている。だが、一センチでも、一キロでも「美人」に近づこうとする目標ができた。容姿の美しさを測る物差しとして、他人からの言葉ではなく、数値という絶対的な基準ができたのである。
 とくにバストサイズは女性的魅力を計る大きな物差しとなった。当時人気があったマリリン・モンローやブリジット・バルドーという海外の映画女優が、みな「バスト90センチ」を売り物にしていたことから、90センチのバストが「最高」とされるようになる。のちのちまでバスト90センチは男性のオブセッションとなり、そう書いてあるだけで、条件反射でヨダレがこぼれるほどになる。

 NHK「美容体操」で推進された消費型カラダ

  1954年からNHKで「美容体操」が放映された。食べるだけで精一杯だった戦中から一転して、「美しいカラダになるための体操」が天下のNHKで放映されるようになったのだから、戦後の復興著しいといったところだろう。
 番組のタイトルが、健康ではなく美容だったことは注目に値する。日本国民は健康よりも美容のほうに気持ちが動いたのだ。戦中の「国民としての体力強化」、つまりはお国を守るためのカラダ、お国を守る人を生むための生産的カラダを作るために行われていた体操には拒否感があった。「美容」体操の目的は、きわめて軟弱な個人的欲望を実現するためにある。消費型カラダの価値を、NHKでさえも認めたのだ。

 観賞されるための乳房、消費をうながす乳房は、50年代にさまざまな形でクローズアップされる。その一つが「作られた野生の乳房」であり、もう一つが「日本型グラマーの登場」である。次回はこの2つを取り上げたい。
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