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プロローグ
 乳房は誰のもの?

 乳房は誰のものだろうか?
 大人の女性であることの象徴、だから女性のものだ、とまじめな優等生は答えるだろう。
 いやいや、ぼくがいとおしみ、顔をうずめて気持ちよくなるためにあるんだ、と恋人や夫たちはつぶやくかもしれない。
 乳房は赤ん坊が生きていくためのだいじなミルクタンクなんだ、いやらしい目で見るんじゃないといきどおる人もいたりして。
 思春期を迎えるころ、乳首がぷっくりとふくらんできて、しだいに丸く盛り上がってくる乳房を、うれしいような、ほっとしたような、それでも恥ずかしくてうっとおしい気持ちで眺めた経験は、たいていの女性ならばあるはずだ。
 同じく思春期を迎えるころ、体育のときに同級生の女子のジャージーの胸元あたりのふくらみに吸い寄せられるように目がいってしまい、ブラジャーのストラップが透けて見えたりなんかすると、わけもなくどきどきして赤面 しそうになった経験は、たいていの男性ならあるものじゃないか。

 古代人にとって乳房は生命パワーの源泉

 紀元前5000年のアナトリアから発掘された大地母神の彫像や、クレタ島から出土した紀元前1600年頃と推定される「蛇女神」は、乳房を女性のパワーの源として古代の人たちがあがめてきたことを物語っている。
乳房は女性の心身の変化によって形や大きさまでもが変わる、女性にとってもおもしろくてふしぎな器官だ。妊娠・出産して乳がほとばしりでるさまを見て、古代の人たちは生命の神秘を感じ、生命を司る器官として信仰の対象になってきた。
 乳房にまつわる神話や逸話は数多く残されている。
 一世紀。クレオパトラは乳房をヘビにかませて自殺した。
 三世紀。聖女(にして美女の)アガタは好色なシチリア州総督クィンティアヌスの求愛を受け入れなかったために、「死刑」にも等しい、乳房を切り落とされる拷問を受けた。
 生命を司るだけではない。乳房は男性を誘惑するパワーを持っている。それを古代の男も女も知っていた。それもただの誘惑には終わらない。誘って、狂わせて、堕落させる力が宿っている。とくにキリスト教が普及した中世西欧社会では、その力を信じていた。乳房のそんな力を克服するために、修道女たちは乳房のふくらみがわからないような服を着たり、ときには晒しを巻いた。
 反対に、19世紀のフランス帝政時代のように、誘惑する乳房のパワーを全開にするファッションがはやったこともあった。

 20世紀の女性たちにとっては解放のシンボル


 20世紀。60〜70年代に世界の先進国で起こった女性解放運動では、ノーブラが女性の性的・社会的解放の象徴になった。1968年アメリカのアトランティック・シティで起こった「ブラ焼き」は、その発端となった事件である。女性たちは実際にはブラジャーをゴミ箱に捨てただけだったが、話は「ブラジャーを焼いた」と作り替えられて伝えられた。ブラジャーは乳房を隠しながら見せつけるという、男性のフェティシズムを刺激する装置として非難された。それを焼き捨てることは、女性たちにとって、男性優位 の社会的身体の束縛からの解放を意味していた。
 1987年。イタリアで有名なポルノ・スターだった「ラ・チチョリーナ」は、イタリア急進党から国会議員に立候補し、国会議事堂の前で乳房を出したまま「性的抑圧に反対!」と演説して当選した。乳房は政治的パワーさえも持ちうることを女性たちは自覚しはじめたのである。

 戦後、日本人はやっと乳房を発見した


 そして、日本人は1946年、戦後になってようやく乳房を発見した。
それまでも日本人は乳房を性的シンボル、または女性の生命パワーとして意識してこなかったわけではない。だが、それは恥ずかしいことであり、とくに女性が乳房を誇示することなど、社会的に許されないことだった。
 戦後日本に急速に普及した「洋装」が、女性の身体観を180度転換した。働いたり、子どもを産んだりする生産的な身体しか持っていなかった女性たちは、着飾ったりスポーツしたりする消費型の身体を持つようになった。丈夫で健康でありさえすれば用が足りていた身体は、人に見せて賞賛を受けるための“美しさ”という付加価値によって値打ちが決まってくるようになる。
 男性も乳房を発見した。お母さんの「おっぱい」を思い出させるから、という理由で好きだった乳房が、はっきりと女性性のシンボルとして意識されるようになった。大きさだの形だのが気になりだすようになり、デカパイだのペチャパイだのといった言葉が作られるのは1960年代以降だ。

 洋装が日本人の身体観を180度転換した


 着物とちがって、洋服はバスト−ウエスト−ヒップという身体の凹凸 を立体的にとらえ、強調する衣服である。怒涛のように流れ込んだ西欧文化の中で、日本人の身体も身体意識も根本からくつがえしたのが、洋装である。1947年には、銀座の定点観測で約半数の人が洋装だったと記録されている。戦後たかが数年で、日本人は洋服を選んだのだ。
 そして最初に日本で流行したファッションが、日本人の体型コンプレックスやセンス・コンプレックスを決定づけたといってもよい。それはパリばかりでなく世界的に注目を集めた新進気鋭のデザイナーの、クリスチャン・ディオールが打ち出したニュールックである。ウエストを細く絞りこみ、豊かな丸いバストとヒップのラインをくっきりと造形的にだしたニュールックは、当時の寸胴日本人体型では着こなしにくかった。以後、ファッションはさまざまに変遷すれども、「洋装」をきれいに着こなすための「日本人離れした体型」が、最高の賛辞として定着する。

 サイズに合わない身体は除外される


  身体のサイズ化も、戦後から始まった。とくに乳房の大きさは、そのまま「女性らしさ」を計る数値ともなった。1950年代後半に飛躍的に普及したブラジャーは、乳房のサイズ化を積極的に推し進める。70Aから90Eかで、女性は人格までも決定付けられたような気分にさせられた。
 サイズ化は、規格化にも通じていく。本来、千差万別だった体型は、分類され、型にはめられる。洋服のサイズが9号で、ブラジャーが75Bでない女性は、おしゃれからはじかれ、男性から振り向いてもらう機会も損失し、何よりも最悪なのはコンプレックスに苦しめられるはめになる。1960年代後半、弘田三枝子の大ベストセラー「ミコのカロリーブック」以降、規格に合った身体になりたいという強迫観念にとらわれた大多数の女性たちにとって、ダイエットは至上課題となる。

 乳房のファッション化、そして商品化へ


 日本人がセクシャルな乳房を発見したと同時に、そのファッション化、そして商品化も始まった。
 戦前にあった「乳バンド」は、押えるという機能性しか重視されなかった。そこに登場したのが、「ブラジャー」である。1949年、和江商事、現在のワコールが、日本初のブラジャーを発売した。当時の商品名は「ブラ・パッド」。これは大いに売れて、1950年代後半になると、女性の大半が身だしなみとしてつけなくてはならない必須アイテムにまでなる。ブラジャーは乳房を、いかに美しく、かっこよく見せるかを課題にして、この50年近く商品開発され、売られてきた。ブラジャーをつけた女性は、それまでとちがった視点で乳房を見るようになる。服の上からはもちろん、脱いだときにも魅惑的に見せる「誘惑の装置」としての乳房を、女性はブラジャーによってはじめて意識したのだ。流行に合わせた形に乳房を整え、その時代で求められる女性性のあらわしかたを演出する。それがブラジャーの役割となった。乳房本来(というのがあるのだとして)の機能や自然な形態などは二の次。ブラジャーの普及とともに、乳房はファッション化していく。
 そしてメディアにおいて、美しく誘惑的な乳房を、どう「見せて(または隠して)」、どう「売って」いくかが大きな課題となる。男性向けの誘惑の装置としての乳房は、手を変え品を変えて商品化されていく。どんな乳房を、どこまで、どう見せるか、をたどって見ていくと、その商品化の道筋が見えてくる。


 乳房の歴史は女性の歴史


いま、乳房をどう見せて、どう誘惑するか、その主導権を女性が握ろうとしている。
 乳房の“発見”から50年あまり。その間の乳房観の変遷をたどることにより、見えてくるのは女性の魅力の“発見”ではないだろうか。21世紀に乳房は誰のものになるか。その答えの一端を、この連載で見つけたい。

(次回は「50年代――カラダの復興は乳房から始まった」です)
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