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誘う乳房
70年代――ジャパニーズ・バストの発見(2)

「プレイガール」の人気の秘密

 1969年に放映が始まるやいなや、テレビドラマ「プレイガール」は人気番組になった。といっても、子どもは視聴禁止、お父さんがこっそりウハウハと楽しむお色気番組だった。国際保険調査員の美女たちが、きわどいお色気を駆使して事件を解決するアクションもの。沢たまきを隊長に、桑原幸子、緑魔子、高毬子、西尾三枝子といった、それまでお色気ものに出演していたヒトクセもフタクセもありそうな女性たちが、毎回豊満なバストを見せ、白いパンツを見せ、ときには水着姿で飛び回る。水戸黄門が葵のご紋を見せるように、プレイガールたちは大事な場面でお決まりのようにパンツと胸の谷間を見せる。そのあまりの単純さに、眉をひそめるより思わず笑えてしまうほどの番組だった。
 私も気恥ずかしさにもだえながらも、ときどき「プレイガール」を見ていた。いまだに強烈に疑問に思ったシーンがいくつかある。最後に空手で敵の男たちをなぎたおすプレイガールたちが、なぜミニスカートなのか。動きにくいだろうに。そしてまた、どうしてカメラはそういう場面では下から狙うのか。敵地に乗り込むときに、いまにも胸が出そうなほどのドレスを着ていかなければならないのか。そしてまたなぜカメラはバストの上から狙うのか。疑問に思いながらも、女の私でも目が離せないほど、「プレイガール」はかっこよく、ばかばかしく、わかりやすく、女の色気と強さをこれでもかというほどテンコ盛りにしていた。
 人気の秘密はもちろん美女たちのかっこよさにあったのだが、振り返って冷静に考えてみると、ボンドガールを真似たプレイガールたちが、頭脳や技術やパワーといった点で「男並み」の実力を見せつつ、最後の最後には「お色気」という女が男にしか使えない武器で勝負をかけていた点ではないだろうか。男よりも弱いことを示すことが性的魅力に通じていた時代から、70年代以降は男並みの強さが性的魅力になることを見せつける内容である。描かれ方は現実味にとぼしい絵空事でコミックではあったけれど、男も女もプレイガールたちの活躍になんとなく共感してしまったのは、やはり時代が「強い女の色気」を認める方向にふれていたせいだろう。

70年代アマゾネスは乳房さえも武器にする

 「強い女」は女性の魅力とされているものを武器にする。ある種記号化されたお色気演出のための小道具――パンツやブラジャーといった下着や、胸の谷間、丸いヒップ、むっちりした太もも――が、武器になる。そんなに単純な色仕掛けにひっかかるなよ、男性たち、と突っ込みたくなるのだが、どれほど屈強で手ごわそうな男たちも、美女の演出にころりとだまされ、簡単に鼻の下を伸ばす。その隙をついてプレイガールたちの強烈空手チョップが炸裂するわけだ。
 ここでは乳房は、最終的に男を力で倒すための切り札である。またもっと踏み込んでいえば、女が男に腕力で勝つためには、乳房や太ももといったセクシャル・シンボルを利用しなくてはならない。まともに正面から戦っては負けてしまう。飛び道具のかわりの、チラリズム。少なくともドラマの中ではその構図が成り立っていた。
 反対に恋をすると、さっきまであれほど強かった女が、一気に「弱い女」になってしまう。敵としての男には強いけれど、恋愛感情がまじるとたちまち弱く負けてしまう、というのもこの時代の「強い女」の特徴だった。

21世紀の女性は恋と強さを両立させる?

2000年には「チャーリーズ・エンジェル」でキャメロン・ディアス、ドリュー・ バリモア、ルーシー・リューが似たようなお色気アクションを見せた。ところが彼女たちは、恋人と携帯で話しながら、ばしばし敵を倒したりする。そんなシーンに「恋と仕事を両立させる強い女」を見て、時代の流れを感じた。そしてまた、この映画では敵を倒すためには通り一辺倒のお色気作戦は通用せず、手の込んだ仕掛けや派手なアクションが必要になっている。パンチラやバストチラくらいでは男は動じず、本気のキスや男以上の腕力がなければ敵は倒せない。これも時代を経て男女関係が変わったためだろうか。
 その昔、アマゾネスは弓を引くのに邪魔だからと片方の乳房を切り取って男と戦った。そして残されたもう一方の乳房は、子どもを育てるために使った。母としての機能を満たすための乳房は認めても、女の性的魅力としての乳房は邪魔だと切り捨てたわけだ。
 1970年代の「強い女」プレイガールたちは、乳房の持つ性的魅力を男と戦うためのパワーの源とした。だが一方で、その乳房は恋をしてしまった彼女たちを「弱い女」に変えてしまう危うさも抱えていた。
 そして「チャーリーズ・エンジェル」に見る21世紀の女性たちは、セクシャルな乳房の持つパワーを、恋でも戦いでも存分に利用できるほど強くなっている……のだろうか?

「サインはV」ユニフォームの下で揺れる乳房が悩殺

 小説家の姫野カオルコさんが書いている。「スポ根ドラマ『サインはV』で中山麻里のバストはゆさゆさ揺れていて、悩殺されそうだった」。彼女はそのバストを「犀の角型」と名づけているのだが、たしかにTシャツのユニフォームは一人だけ三角錐を入れているかのように盛り上がり、かっこよかった。
 岡田可愛、岸ユキといった当時の人気若手女優が出演した「サインはV」は、1969年から70年にかけて放映され高視聴率を稼いだ人気ドラマだった。1964年の東京オリンピック「東洋の魔女」の金メダル以来、日本ではバレーボール・ブームが起こり、小学生だった私たちも一丁前に「回転レシーブ」などを練習したものだ。漫画でも「アタックNO1」は連載時から女の子のみならず、男の子の人気も集めた。
「サインはV」もスポーツ根性モノのバレーボールをテーマにした漫画だが、「アタックNO1」よりもう少し大人っぽく、恋あり、ドロドロとした人間関係あり、人生ドラマありの仕立てになっていたのが特徴。放映が始まるやいなや、女子中学生になっていた私は、こんどは「稲妻落し」とか「X攻撃」を練習した。
 テレビを見ていたのは女の子たちばかりではない。男の子も、そしておじさんも見ていた。理由は選手たちのむちむちした太ももと、揺れるバストにあったのではないか。「サインはV」は純粋崇高な(はずの)スポーツの世界に堂々とエロスを持ち込んだ、という点で画期的なドラマである。また女子スポーツ選手=筋肉ばりばりの男っぽい女、というそれまでの見方を転換させた貴重な番組でもあった。バレーボールをやっているスポーツ選手にはとても見えない中山麻里が、トスを上げ、レシーブするたびに否応なく目に入ってくる犀の角型バストは、バストについての新しい見方を視聴者に植え付けたといっても大げさではない。
 それは躍動するバストの美しさである。静止したポーズをとって見せるバストではなく、腕を上げたり下げたり、飛び跳ねたりでんぐり返ししたり、つまり自然に活発に動いているときでも、バストは美しいということを認識させた。

スポ根ドラマに見る欲望充足にかける女性の「根性」

 「サインはV」と同時期に放映されていた「金メダルへのターン」は、種目が水泳で、体型がもっとわかりやすい、ということもあって健康的エロスへの期待度は高まった。だが主演の梅田智子が、どちらかといえば少年のようにほっそりとした体型だったためか、「サインはV」ほど期待に応えてくれなかったのは残念。どちらかといえば、彼女のお姉さんでコーチ役の青木英美の肉体美のほうが、評判をよんでいた。
 この2つの超人気女性スポ根ドラマの底辺に流れている思想(?)は、「何事かを成し遂げるためには根性が必要」、そしてまた「努力すれば欲しいものが手に入る」ということである。もしかしたら制作者の意図はちがったのかもしれないが、少なくとも熱心な視聴者だった私はそうとった。高校で体育系クラブの部長だった私は、ひたすらに部員に根性と努力を説いた。共鳴する部員は少なかったけれど。スポ根ドラマは、それまで女の子が口や態度に出して欲しがってはいけないとされていたもの――たとえば名誉、お金、美貌、男など――を、欲しいといっていいのだとお墨付きを与えてくれた。欲しいものは欲しいと態度で示し、手に入れるための努力を惜しまないことが肯定されるようになった。そしてやがて、女性の欲望そのものを肯定する空気が社会の中にできあがっていった。
 しかも女の欲望にはきりがない、ということもスポ根ドラマは示していた。金メダルやオリンピック出場、または優勝という名誉も欲しい。女性としてきれいでもいたい。恋も実らせたい。幸せにもなりたい……と欲望は果てしなく広がっていく。スポ根ドラマは女の子の欲張りな欲望を、とても素直に表現していた。手に入れるために汗も涙も流すけれど、それくらいはなんのその。むしろつらければつらいほど、充足された欲望は蜜の味がする、ということをスポ根ドラマは女の子たちに教えていたのだ。

美は努力してこそ手に入るもの


 この欲望充足肯定の法則は、スポーツの場面だけに適用されたわけではない。中でももっとも普遍的な「きれいになりたい」という欲望を、女性たちははっきりとやみくもに追求し始める。そして「美は努力してこそ手に入る」ということを自覚するようになるのだ。美人に生まれたから、美人になるのではない。努力するからこそ、美人になれる。そう悟るのである。
 強くしなやかなカラダを得るためのエアロビクスやジョギングは大ブーム。つるつるぴかぴかに磨きあげるためのトイレタリーも続々と新製品が発表された。もちろんダイエットもあの手この手でつぎつぎとブームが起こる。美しいカラダを得るために女性は無尽蔵といってもいいほどお金も努力も傾けていく。女性にとってカラダは最大の投資対象となったのだ。
 そんな女性のボディ・プロジェクトにかける意気込みは、増大すれこそ減じる気配もなく、21世紀に入ったいま、ボディ・プロジェクト関連産業(ダイエット、美容整形、化粧品、トイレッタリー、健康食品などを含む)世界の先進国では一大産業に発展している。
 美しい乳房を持ちたい、という欲望にも、もちろん法則は適用されている。より大きく、より引き締まって、より高い位置にあるバストを獲得するために、美容整形からブラジャーからクリームから体操にいたるまで、あらゆる手段が考案される。時代が\求める「美乳」を手に入れるために、女性たちはたゆまず努力している。「美は一日にしてならず」――美乳を誇る叶恭子のこの「迷言」は、女性たちの欲望充足の法則を端的にあらわしているのである。

美しくない人もそれなりに


女性解放運動が直接的に影響していたことはまちがいないが、ミス・コンテストへの関心は70年代を境に急速にしぼんでいく。少なくとも、一つの理想の美にどれくらい近づいているかを競い合う意味のコンテストは60年代までほど活発ではなくなり、むしろより限定されたジャンルにおける魅力を競い合うコンテストのほうへと移行していったといったほうがいいかもしれない。脚や手といったカラダの部位限定、特産品のイメージを打ち出した地域限定(ミス・そうめんやミス・リンゴなど)、美少女コンテストといった年齢限定のものまで、女性の美しさを競う企画は、商品マーケティングもからんで多種多様になっていく。
 それはつまり、女性の美しさへの評価がひとつに限定されることなく、多様化していったということもさしている。唯一絶対の美、という基準はなくなり、あれもこれも美しく魅力的。「きれいだ」という褒め言葉よりも、「個性的だね」といわれるほうがうれしい、という女性が増えてきた(ただし、いまでは「個性的」という評価は、「美人ではない」ことをそれとなくほのめかしているので、いわれても誰も喜ばないが)。写真のCMではないが、美しくない人も、それなりに胸をはって堂々と生きていく、という時代になったのだ。

個性派女優が大人気


 そんな時代をもっとも端的にあらわしているのが、個性派女優・歌手の人気である。桃井かおり、研ナオコ、泉ピン子、和田アキ子といった現在でも大活躍の女優・タレントたちは、いずれも70年代にデビューまたは活躍している。
 桃井かおりは1971年に映画「あらかじめ失われた恋人たち」で本格デビュー。73年の「赤い鳥逃げた?」で一躍脚光を浴びた。きれいではあるけれど、けっして絶世の美女というわけではなく、ものうげでだるそうなしゃべり方や演技は、従来の女優の枠を越えたものだった。
 研ナオコは1971年に歌手デビュー。「あばよ」「かもめはかもめ」といったヒット曲を飛ばす一方で、女優やタレントとしても活躍。ブスを売り物にしたはじめてのアイドル、女優といっていい。ほっそりとした少年のような体型で、バストもあまりなく、それをまたお笑いのネタにしてもいた。
 泉ピン子も最初は歌謡漫談家としてデビューしたが、1975年に情報番組の「ウィークエンダー」のレポーター役で人気が出て、やがて独特の味を出す女優として脚光を浴びた。地味な顔立ちで、人ごみの中に埋もれてしまいそうなタイプなのだが、それがかえってプラスになったという特異な例である。
 和田アキ子も大阪の女番長だったこと、また長身が売り物の歌手として、70年代以来人気である。
 いずれもお人形さんのようにかわいかったり美しかったりすることではなく、それまでの美の規格外であることを売り物にしている。彼女たちが女性からも男性からも絶大なる支持を得たことは、「個性」が女性の魅力をはかる一つの重要なファクターになったことを裏づけていた。

90センチのバストは本当に美乳?


 美人よりも個性、という流れは、美乳の評価にも影響を及ぼした。バスト90センチという「理想のサイズ」に対して女性たち自身も懐疑的になり、必ずしもサイズだけでは測りきれない自分なりの基準の美乳を求める動きが出てきた。これはまた、既製服の急速な普及によって、カラダをサイズ化、規格化してとらえることが進んだことへの反動といっていいかもしれない。
 カラダの個性化への動きは、まずブラジャーに反映された。やせていても乳房が大きい人もいれば、太っていても扁平な胸の人もいる。そこで下着メーカーでは、アンダーバストのサイズとカップの大きさの組み合わせを多様化することで、さまざまなバストに対応しようとした。ブラジャーは身だしなみとしてつけておく、という時代から、もう一歩進んで自分にあって、つけ心地のよいブラジャーを探す、という時代に入った。これはさまざまな形や大きさの乳房があり、どんな形でも自分に合っていることがたいせつ、という認識を持つことを意味していた。
 ワコールでは1977年からアンダーバストとカップの大きさをラベル表示するようになる。いまでは女性なら常識として知っている「80-A」というようなサイズ表示がされるようになったことで、女性は自分のバストの特徴をより具体的に知ることができるようになった。「大きい」「小さい」「垂れている」だけではなく、記号によってバストのイメージを持つようになった。
 また素材も多様化した。伸縮性を重視するために合成繊維で作られてきたブラジャーに、自然素材のコットン製が加わった。直接肌につける下着の感触にも選択の幅が出てき、ということだ。機能やデザインにもバラエティが出てくる。1978年にワコールから発売されたフロントホック・ブラは、ブラジャーのつけ方や機能性にも目を配った商品として人気を集めた。またスポーツを愛好する女性たちが増えたことから、スポーツ用のファンデーションやランジェリーも発売が開始している。
 女性の美の評価の多様化は、欲望の多様化を呼び、そして商品の多様化へと反映されていく。その逆もまたしかり。新しい商品が出てくることで、美しくなりたいという女性の欲望はますます燃え上がる。こうやって女性たちは美に対してますますどん欲になるのだが、一方で女性たちが求めている美は、とてもひとつやふたつの枠にはおさまりきれないほど多様化してきた。自分に一番しっくりとくる美しさ、そして自分が一番納得のいく乳房を求める女性たちの増加で、乳房はまもなく個性化の時代を迎えようとしている。

ありのままのカラダは大嫌い


 美しさの基準があいまいになり(というより多様化し)、「美しくなるために女性は努力すべきだ」ということが社会的命題にさえなってきたのが1970年代。そうなると努力と根性でカラダをそっくり作り変えてしまおうとする女性も増えてきても不思議ではない。
 人間は自然のままの自分のカラダを嫌悪している、だからなんとか自分のカラダを変えたがっているといったのは文化人類学者のバーナード・ルドルフスキーだ。さまざまな文明において、さまざまな手段で人類は身体変造を試みる、というのが彼の説なのだが、1970年代の日本では、「カラダを変えたい」という欲望を満たすための手段がつぎつぎと考案され、身体変造は大きな産業に変わりつつあった。
 マイルドな手段では、髪型や化粧やファッションがある。極端になると美容整形や纏足など外科的・人工的方法もとれる。お金と時間と手間を惜しまなければ、カラダはいかようにも変えられるのだ。そしてありのままの自然の姿ではなく、時代の流行にあわせてカラダを変えていくことが、社会的に奨励される方向へと身体観は変わっていった。「親からもらった大事なカラダに傷をつける」ことが、さほど抵抗なくできる……どころか、むしろ積極的にやってしまおうという若者たちが登場する。

ヴァーチャル・ボディとリアル・ボディ


 ありのままのカラダがいやだ。というのなら、いったいどんなカラダならしっくりくるというのだろう。求められているのは、もしかするとメディアによって作られたヴァーチャル・ボディではないか。
 鏡に写った自分のカラダ、もしくは目の前に立っている人のカラダをリアル・ボディとするのに対して、ヴァーチャル・ボディは頭の中にあるイメージとしてのカラダである。イメージをつくるのは、テレビや映画、雑誌で観るタレントや俳優のカラダ、ときにはアニメやマンガに登場するカラダかもしれない。リアル・ボディに魅力を感じ、それが異性ならばセクシャルな興奮を覚えたりすることが当然とされてきたが、メディアの発達によって、ヴァーチャル・ボディに対しても同様の刺激と興奮を感じ、そのうちヴァーチャル・ボディにしか感じないという人まででてくる。その前兆は70年代末あたりから見られた。リアル・ボディとヴァーチャル・ボディとのギャップが広がっていくのが、ちょうどこのころなのだ。
 自分の生身のカラダから目をそむけ、頭の中にある「本来の自分はこうあるべきなのだ」というイメージに近づけようと女性たちは必死の努力をするようになる。そしてまた、近づけるための手段を提供する新手の商売がつぎつぎと生まれた。女性雑誌やテレビでは、タレントたちがいかに努力してやせたか、肌を美しくしたか、脚を細くしたか、胸を大きくしたか、という話を一年365日繰り返し語っている。いわば一人ひとりの頭の中にある、追いかけてもつかまえることのできないヴァーチャル・ボディの大量生産大量消費。その勢いにますます拍車をかけたのが、ピンク・レディである。

歌って踊るサイボーグ


 ヴァーチャル・ボディが行き着くところは、サイボーグ(人造人間)である。永遠に年をとらず、疲れを知らず、シミシワも作らず、「こうありたい」と望むままの形と機能を備えたカラダ。ピンク・レディのミーちゃんとケイちゃんは、1970年代に女の子たちがひそかに憧れていたカラダを、なみだぐましい努力で手に入れたシンデレラ・ガールズだった。
 スター発掘のための企画で見出された2人は、ペッパー警部でデビューしたときにはごくふつうのかわいい女の子たちだった。脚もちょっと太めで、顔もぽっちゃりとしていたし、カラダのメリハリもそれほどなかった。それがみるみるうちに磨かれて、まっすぐのきれいな脚になり、それほど大きくはないが、形のよいバストを強調するかのようなビキニ姿のステージ衣装で歌い踊りまくるようになる。
 スタイルがよくなり、きれいになったことにも目を見張ったが、もっと驚いたのは1976年にデビューしてから3年間ほど、「いったいこの人たちいつ寝て、いつ食べているのだろう?」というくらい、あらゆるメディアに出ずっぱりだったことである。つぎからつぎへと新曲を出し、そのどれもが大ヒット。日本中小さな子どもからお年よりまで、「UFO」も「渚のシンドバッド」も踊れて歌えた。疲れを見せないその働き方もまた、サイボーグとしか思えなかった。踊りの振り付けもまた、ロボットのようにカクカクしていて、生身を感じさせなかったし。
 強靭で、勢いがあって、細くて、激しく動くのに汗を感じさせない。ピンク・レディのそんなサイボーグのようなカラダを男の子たちはセクシーだと感じたはずだ。一方の女の子たちは、ピンク・レディの努力を買った。自分たちだって、彼女たちくらい努力すれば、かっこいいカラダを手に入れられるかもしれない、と思った。リアル・ボディをヴァーチャル・ボディに必死に努力する女の子たち。ヴァーチャル・ボディをヴァーチャルなまま、イメージだけを肥大させていこうとする男の子たち。両者のズレは、80年代に入るとはっきりとちがう身体観・乳房観を生むことになっていく。

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