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<第1回>「サッカーの誘惑」
親善試合に注がれた熱い視線
 これが目的で行かせてもらった以上、サッカーにふれないわけにはいかない。
 まず驚いたのが、FIFAランキング40位以下のサッカー弱小国日本との対戦に、ランキングトップのフランスが思いもかけず本気だったことである。街の人たちの関心も高かった。シャンゼリゼにあるパリ・サンジェルマンのオフィシャル・ショップの店員たちは「必ず観戦に行くよ。チケットが完売する人気試合なんだよ」といっていたし、新聞を買いに入ったカフェで、中年のギャルソンに「ナカタの調子はどうなんだい?」なんて聞かれたりした。友だちと待ち合わせをしたホテルのコンシエルジュに、日仏戦予想が掲載されているロビーに置いてあった新聞が欲しいとねだると、「ああ、トルシエが載っているんだね。いいよ、持っていって。今夜の試合、いい結果になるといいね」とにこっとされた。
 日本ではありえない話だ。私が「サッカーが好き」と打ち明けても、周囲の反応は冷たい。おざなりに「どこのチームが好き?」と聞かれる程度である。たいていは失笑される。今回、パリに行く、サッカーを観に行くんだ、というと、99%の人は笑った。「そんなことまでやって、たいへんだね。ご苦労さま」って感じである。親善試合があることを知っている人は、少なくとも私の周囲に半分もいなかった。それくらい、日本ではサッカーの認知度は低い。こんなことで来年ワールドカップなんて開催できるのだろうか。
サッカーへの温度が高いフランス
 それはさておき、パリではサッカーに対する温度がまるでちがった。親善試合のことはあのル・モンドでも特集になっていたし、テレビでは試合の前後に特番が組まれていた。トルシエはフランスでも有名人だし(ちなみに私が話したフランス人サッカー好きの人たちのトルシエに対する評価は高かった。リアリストで、サッカーへの情熱があって、日本のことを愛している、というのがその理由だ)、ナカタ・ヒデの移籍問題についてもスタッド・ドゥ・フランスで観戦していた人たちは詳しかった。サッカー選手はフランスでは超有名人である。ましてやフランス代表となると、英雄であり、大スター。ジダンなんて大統領よりも尊敬を集めていたりする。スタジアムの熱気も日本では考えられないほどの熱さだし、いいプレーには大きな拍手が、そしてヘタクソなミスには激しいブーイングがくる。
大衆社会のガス抜き?
 たしかに労働者階級の大衆スポーツだ、という見方は否めない。日本にいるフランス人に「サッカーのことがわかるフランスの活字媒体ってなに?」と聞くと、「そうだなー、日刊でレキップっていうのが出ているけれど、あれって読むのがとても恥ずかしい新聞だからねえ」と顔をしかめた。「だいたいにおいて、フランスの知識階級はサッカーが好きなんていわないよ」ともいう。でも実はけっして嫌いではないそうだが。階層社会のフランスでは、サッカーは真ん中から下の階層の人たちの娯楽であり、夢であり、政治家にしてみれば一つのガス抜きでもある、というのが知識階級の見方で、それはあながちまちがいではない。
 フランス代表チームの8割は移民の子どもたちで、フランス・リーグで活躍している選手の多くはアフリカや東欧、北欧、中近東からやってきている。サッカーはフランス社会のある部分の縮図を見せているといっていい。移民問題、人種問題、貧富の差の問題。機会均等とはまちがってもいえない不平等社会にあって、サッカーは真ん中より下の階級の子どもたちが、お金が稼げて社会的に認められる手段なのだ。そしてまたサッカーファンにとっては、スター選手に自分を重ねることが、ストレスを発散するよき手段ともなる。サッカーはまさに、大衆社会におけるガス抜きの役割をはたしているのだろう。
温室の花のように華麗でひ弱な日本人選手
 大敗した翌日のスポーツ新聞には、日本人選手の酷評が掲載されていた。それは技術的にヘタとか、監督の采配ミスとか、そういうこと以前の評価だった。一番多かったのが「ナイーブ」という形容である。バカがつく正直さと生真面 目さ。幼いといってもいいほどの素直さ。精神面肉体面でのひ弱さ。「若いチームとはわかっていたが、ここまでナイーブだとは思わなかった」というル・パリジアンの評価が妥当なところだろう。
 スタジアムでフランス選手と並んだ瞬間に、そのナイーブさは歴然としていた。体格がひ弱だというだけではない。顔つきがちがうのだ。プロとアマ、大人と子ども。それくらいの差があった。試合についての論評は、評論家ではないので避けるが、1点取られるごとに日本人選手のひ弱さが浮き彫りになってきたような気がしてならない。
 その差はどこにあるのか。そう単純には割り切れないだろうが、私はフランス社会と日本社会におけるサッカーの位 置づけのちがいではないかという気がしてならなかった。代表に選ばれるほどの日本人選手は、幼いころからエリートとして大事に大事に育てられる。スターといわれる選手のインタビューを読むと、たいてい「小さいころからサッカーがすごくうまかった」「サッカー漬けの毎日だった」とある。周囲から賞賛され、期待され、親も学校の先生もコーチも「サッカーに夢中になれる環境」がつくれるよう協力を惜しまない。お金をかけ、雑音を聞かせず、サッカー漬けでも生きていける環境を整えてあげている。サッカーという温室の中で栄養をたくさん与えて育てた花のようなものだ。
 だから外の風にさらされると弱い。社会的にいつまでたっても子どものまま。それはサッカー選手だけにかぎらないのだけれど。
悲惨な生活と隣り合わせの栄光
 かたやフランス選手の生い立ちはそれほど華やかではない。路上でボールを蹴っているところに目をつけたスカウトがクラブに売り込む。そこで同年代の似たような少年たちと激しく競争しながら鍛えられていく。何千人かに一人が、ケガもせず、伸び悩みもなく、順当に進んでプロになれる。プロになってつかむ栄光はまがゆいほどだ。
 だがほとんどは「負け犬」となって、落ちこぼれていく。日本のように、プロになれなくてもなんとか食っていけるような甘い世界ではないから、文字通り路頭に迷う生活になりかねない。それこそ生死をかけて、サッカーをしなくてはならないのだ。先日、フランスのテレビ局が制作した、落ちこぼれてしまったサッカー少年たちのその後を追いかけるドキュメンタリー番組を深夜のBSで見たが、それはもう悲惨だった。豊かなはずのフランスで、飢えと寒さに苦しむ生活なのだ。
世界で勝つためには?
 どちらがサッカーをするのにいい環境か、などと論じることこそナイーブだろう。サッカーの位 置づけがそもそもちがう。日本人選手がひ弱なことは、もしかすると幸せの代償なのかもしれない。
 日本人選手が「強くなるために海外移籍したい」と最近よく口にする。とてもいいことだと思う。外の風にさらされないと、自分のひ弱さがどんなものかなんてわからないから。
 だが、やみくもに外に行けばいいってものではないだろう。風にさらされて枯れてしまう花のほうが、実は多いのかもしれないのだから。そしてそれもまた、つぎに大きく開く才能のための栄養と割り切れる冷たさが日本にあるかどうか。
 生活するために最低限、どこにいっても一人で生きていけるだけの武器をそろえることではないだろうか。語学力しかり、生活能力しかり、失敗してもへこたれない精神的強さしかり。いまパラグアイで活躍している廣山望選手が、流暢なスペイン語でインタビューに答え、「食べ物も生活も最高」といっているその穏やかながらふてぶてしい顔を見ると、やはりスポーツバカではなかなか一流のインターナショナルな選手にはのし上がっていけないのだなと思わせられる。彼も弱小市原でケガに泣き、もう選手生命おしまいといわれるところまで追い詰められての海外移籍だった。
 世界に通用する一流選手を育てるためには、それこそ日本の教育を根本から変えるくらいでないといけないのかもしれない。W杯決勝トーナメント進出を悲願とするより前にやることがたくさんありそうだ。そんなことを考えさせられたフランスVS日本の親善試合だった。
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